2011年12月13日火曜日

「World’s End」と「電気の敵」

3.11の大惨事のあと、アートや写真に携わる人から無力感を感じたという記述をよく目にすることが多かった。

しかし、はたしてそうなのであろうか。

自然災害は人類の歴史上、常にどこかで襲ってくるものだ。問題は大惨事の前後の僕たちの日常茶飯のたたずまいなのではないだろうか。
戦後、日本が豊かになるにつれて、僕たちが失ってきたものは光があれば闇があるというしごくあたりまえの日常を支配する原理へ思いをはせる想像力の欠如だったのではないだろうか。
アーティストも含めた大部分の日本人がこの想像力を失ってきてしまった。
原子力発電という狂気の技術をはびこらせてしまったのも、この想像力の欠如が大きな要因となっていると思う。

昨年7月に見た川田喜久治氏の「World’s End」のスライドショーでは六本木の路上や東京の街を行きかう人々から発せられる異常ともいうべきクライシスの様相がとらえられていた。一見平穏無事な日常の風景は氏のカメラによって中世の地獄絵巻のような風景にとってかえられていた。

最近ふと読んでみた稲垣足穂の「電気の敵」には父に電気の配線を調べてくれと言われた私が見た自宅の配電盤からおびただしい火花がほとばしっている光景から、らんらんと燃えさかっているような月、外に出て自転車にまたがろうとした私にしがみついてくる丸裸の妹のねばねばとした熱い感触といった記述から一気にこの世の終末風景が展開する。

なんという想像力であろう。なにげない日常の風景から時空を越えた終末世界が展開することをまざまざと見せてくれるのである。

九死に一生を得た人間が見上げた空はすばらしく美しかったであろう。身のまわりの普段は取るに足らない草木中魚のひとつひとつが光り輝いて見えたことだろう。

アーティストの想像力とはこのような感覚を日常に見せてくれる技術のことだ。日常茶飯のことからエロティシズム、グロテスクといったバッドテイストな領域、終末の恐ろしい光景までもを美の様式として成立させるのがアート的な本質である。

僕たち人間ひとりひとりの長い一生も、永遠の時間感覚から見ればほんのまばたき一瞬のことだ。僕たちにとって死だけが神から約束された確実な未来の光景である。

日本人はこうした死生観をジャパネスクという美の様式に昇華させて着物や屏風や茶器といった日常茶飯のすみずみにわたって天上界と地上界、死と生を結びつける想像力を喚起する装置をしつらえてきた。

近代以前の日本人が脈々と築き上げてきたジャパネスクという美の様式こそ、時には恐ろしい爪をむきだして自分たちに襲いかかり、時にはこの世のものともおもわれない至福の瞬間を感じさせてくれる自然の理とむきあう方法論なのだ。

このすばらしい想像力を失ってきてしまったことを僕たちはもう一度真摯にとらえなおさなければならないだろう。